東京2020。選手村での選手団対応ボランティア。携帯電話。
選手村には、各国から参加する国が選手団を作って入村する。
基本、選手以外に選手団団長、副団長、医師など国によって参加する人が違う。
例えば、選手が1人しかいない場合、それにつきそうコーチだけなどというケースもあるかもしれない。
何百人の選手がいる国では、団長、副団長、医師、マッサージ師、それぞれのスポーツのコーチ、など本当に様々な関係者が同伴してくる。
団体競技は選手が多いだけに、関係者も必然的に多くなる。
選手村の選手団対応にあたったボランティア達は、活動開始1週間前くらいに、東京2020からメールをもらい、どの国の担当になるか知らされる。
この時点でそれを拒否することは殆ど不可能だったと思う。
しかし、コロナ患者が多く出ている国などにあてられた人たちからは変更希望が出ていたようだ。
私はスペイン語が話せることを前面に出していたので、スペイン語を話す国の担当になった。
選手団の団長や役員はすでにほかの国でのオリンピックに参加した経験を持った人もいて、どのように進むのか、どのような手続きをするのか知っている。
活動が始まる前に直接選手村に行っての研修があり、村内を案内してもらい、選手村での規則などについて細かく話があった。
バッグは指定のバッグのみで、雨の日の長傘もいけない、折り畳み傘で来てくださいと言われた。
危険物品と思われるものを持ち込んだりできないように、とのことらしい。
しかし実際、1日目からそれは崩れた。
チェックインしている人たちを見たら、ボランティアだけではなく、選手村で仕事をする人たちも同じ場所からチェックインをするのだが、大きなリュック、長い傘、人によってはリュック+手提げかばん。
なんだ、全然大丈夫じゃん。
そもそも不可能、あのバッグ1つで動けって。
特に女性はいろいろ持ちたいので。
ユニフォームも上に違うジャンパーを着ている人、靴も違うのを履いている人、それを誰も指摘はしなかった。
いいんじゃん。
よかった。
選手団担当ボランティア達は一人一台携帯を渡された。
ラインをインストールできるのだが、すでに各自の名前で登録されていて、1000人以上のグループラインができていた。
グループラインって、こんなすごい人数でもできちゃうのね。
しかし、誰かの書き込みをある一定の人数が閲覧するとキャパオーバーで閲覧できなくなる。
それが300人なのか500人なのかわからないが、最初の頃は閲覧できないものだらけだった。
新品の携帯を渡されて、使えるようにするのは結構時間がかかる。
私は何人かのシニアの方達に使い方を教えてあげなければならなかった。
が、その後使えるようになったかは知らない。
この携帯は、東京2020が指定したアプリ以外はダウンロードできない。
時たまダウンロードできることがあるのだが、次の日もしくは2日後にはなぜか消滅している。
いくつかやってみたがやっぱり消滅するのでもうあきらめた。
ダウンロードできたのは、PCR検査の登録アプリと入村退村自己申告アプリ。
ヨーロッパはラインはあまり使われていなく、Whatsappというアプリが主流だが、それもダウンロードできなかった。
なので選手団との連絡をとりにくく、多くのボランティアが個人の携帯から彼らとWhatsappで連絡をとっていたようだ。
しかしその後、私達はこのラインアプリなくして活動はできなくなる。
いやはや、とにかく活動が始まったらわからないことだらけだったのだ。
細かく話しているときりがないのだが、一見、準備万端のように思えた選手村だが、活動内容、仕組みなどが全く知らされていなかった私達は、手探りで、それも時間がない選手たちと右往左往しながら短時間で解決しなければならない案件ばかりに立ち向かうことになった。
諸々の書類手続き、タクシーの手配、競技場への行き方、各国に割り当てられる車の手配など、本当にわからないことだらけで始まったのだが、これを解決してくれたのが携帯のラインだった。
突然誰かから、「誰か教えて~。これはどうするの?」と質問が出る。
自分には関係のない質問だが、ちゃんとそれを調べて回答してくれる人がいる。
すでにそれはこうやって解決したよ~と教えてくれる人もいる。
文章力が強い人も多々いるので、長~~~~い文章で細かく教えてくれる人もいる。
本当にこれにはたくさんのボランティア達が助けられたと思う。
愚痴や文句も並べられたが、必ずそれを収める人も出てくる。
最初の一週間は携帯のラインの音が鳴りっぱなしだった。
が、これも一週間もすると落ち着き始める。
日本人とはすごいもので、ボランティアなのに皆本当に一生懸命取り組み、調べ、選手達のために翻弄するのだ。
中には、「そこまでしなくていいよね」という案件も見受けられたが、それは個人の責任で・・・という感じだ。
私はのめりこむタイプではなかったし、一緒に活動していた人たちも同じ捉え方だったので、活動時間もきっちりその時間で対応したが、そうではない人達や、言われるままに外で買い物をしてきてあげたり連れて行ったりなどしていた人たちは多い。
思い出の残るラインアプリだが、最後は返却しなければならないのでそれを残すことはできなかった。
断捨離。・・・からの物欲減。
日本に帰国する時にした断捨離後、ものに対する欲が減ったような気がする。
もともとそんなにブランドものや高い化粧品などは買っていなかったし、食べるものも「あそこの○○じゃなきゃ!」という事もなかったが、以前よりはるかに買わなくなった。
一時帰国の時には、どうしても日本食を作るために必要な食品などは買いだめして帰っていたのだが、その時も普通のレベルのものを買って帰っていた。
例えば、カレールー。
日本には本当にピンからキリまでのカレールーがある。
昔からあるおなじみのものから、高級感の漂うものまで様々だ。
しかし、私はいつも昔からのおなじみの一番安価なルーを買っていた。
贅沢は言えない。
とりあえず日本のカレールーがあればいいのだ。
安くても十分おいしい。
殆ど必ず買って帰っていたものは、カレールー、麻婆豆腐の素、ガリ、紅ショウガ、たらこと明太子のスパゲッティの素(素というんだっけ?)、青のり。
息子が小さい時はこれにお菓子やラーメンとかが加わったが、成長と共に少なくなった。
あと何があったかなあ。
日本食は、お醤油、みりんがあればだいたいできてしまうし、中華食材店に行けば結構いろいろそろうのだ。
中国人おそるべし!
日本に帰ってきたら、あの頃ちょっと興味があったおいしそうなカレールーとか買ってみようと思っていたが、帰ってきたら全く買わない。
これで十分じゃん、と思ってしまう。
私はこれからどれくらい生きられるのかわからないが、少なくとも、これからの人生はゆっくりフェイドアウトしていく人生だ。
なるべく物は増やさないようにして、死ぬまでに持ち物を少なくしておきたい。
生活するために買わなければならないものはあるが、最低限のもので十分だと思っている。
物欲は減ったが、寂しいとか、悲しいとかそんな気持ちは全くない。
むしろせいせいしている。
この気持ちは、若い時にはもちろん持っていなかったし、たぶん想像もできなかっただろう。
家の中を飾るものを買いたいとか、買いたいお皿があったりした。
洋服を買うのは好きだが、せっかく断捨離してきたので、なるべく増やさないようにしたい。
10年後には今の半分にできたらな~と思っている。
なぜ10年後か。
10年後にはたぶん今持っている服は似合わなくなっているだろうし、活動の仕方も今とはだいぶ違うだろう。
もちろんこれは10年後も私が生きていれば・・・だ。
人生何があるかわからない。
私が死んだ後になるべく片づけが簡単になっているようにしていきたい。
断捨離。
断捨離というと、今は流行りのことばのようだが、私は日本に帰国する際に、たぶん持っている物の80%位を処分してきたような気がする。
家を売るためには家具は全て処分しなければならなかったので、これは結構大変だった。
ネットで売ることももちろんできるが、これは意外と時間がかかる。
リビングにあったソファ、テーブル、大型液晶テレビ、家具、ダイニングテーブルと椅子、IKEAの本棚(一番背の高くて扉付き)4つ、電子ピアノ。
テレビは下見に来た引越し屋さんが「これは持っていかないの?」と聞いたほどだ。
コンセントがね、違うのよ。電圧が。
電化製品持って帰れないの。
掃除を手伝ってくれたルンバちゃんもさよならよ。
主寝室にあったキングサイズベッド(引出収納付き)、壁掛け鏡とその下に置く家具。
息子の部屋にあったシングルベッド(跳ね上げ式収納付き)、IKEAの本棚(扉付き)2つ、これまたIKEAの大きな勉強机と椅子。
もう一つの部屋にあった息子と同じシングルベッド。
この部屋にあった仕事用の机と椅子。
玄関に入ったところにあった、鍵やバッグをかけることができる壁掛け用鏡。
洗濯機、乾燥機、1年も経っていない冷蔵庫。
これら全て、知り合いに譲った。
現地に住む日本人やスペイン人の友達。
そうそう、古かったけど私の車も。
車は毎日出勤するために乗っていたし、私の日々の気持ちを一番よく知っている友人のような存在なので、手放すのは本当につらかった。
抱きしめられるものなら抱きしめたいほどだった。
でもどの家具も知っている人たちの家に収まってくれて、なんかそれはとても嬉しかった。
きっと家具たちも喜んでいることだろう。
車も、古かったがちゃんとメンテナンスに持って行っていたので、今でもしっかり働いてくれているらしく、その話しを聞くとそれまた嬉しい。
洋服もものすごい量を処分した。
捨てたのではなく、困っている人たち用のお店があって、そこに全て持って行った。
そこに話しを聞きに行った時に
「なんでも持ってきていいわよ。夫以外はね」
と言われたが、私が一番最初に捨てたいのは夫だった(苦笑)。
靴もバッグもかなり処分した。
洋服は日本にたくさん売っているし、服っていつでも断捨離できるぐらい、要らない服をため込んでいるものだ。
ただやはり思い入れの大きなものを処分するのはしんどかった。
なにが大変って、「思い出の品」以上に大変なものはない。
息子の思い出の品。
とっておいてもどうしようもないものだけど、日本への引越し荷物に入れて日本の狭い住宅においておける余裕はなさそうだ。
引越し荷物は最低限にしておかないと、国際引越しだ。
あっという間にすごい値段に跳ね上がってしまう。
今までもどちらかというと、定期的に処分してきたので、厳選されたものだけが残っていたのだが、ここからもまた厳選しなければならなかった。
息子が保管してもよさそうなものマドリ(マドリード)に住む息子に送った。
山のような漫画本もその一つだ。
ただ、その中でも息子が「まだ捨てたくない。でもマドリには要らない」というものがあって、それだけはしょうがないので引越し荷物に入れてあげた。
こんなことになってしまったうしろめたさのようなものがあった。
だって、息子にとっては実家がなくなるんだよ。
生まれた時にいた家ではないので、「生まれ育った家」ではないけれど、息子が生まれ育った土地に母親がいなくなってしまうのだ。
それも隣町とかではなく、遠い日本に行ってしまうのだ。
自分に置き換えて考えた時に、やはり胸がギュギュっと痛くなる。
ごめんね。
でも断捨離は本当に簡単ではない。
引出しを開けて、その中にあるものを見て、3分ぐらい眺めて、またそのままスーッとその引出しを何回閉めたことか・・・。
やり始めればどんどん行く。
しかしまたぶち当たるのだ。
開けて眺めて閉める引出しに・・・。
泣いてなんかいられない。
どうしようか悩んだ時はそこは少しの間保留にする。
他の引出しにチャレンジする。
胸はざわざわするし、テンションは落ちる。
でもこれをやらないと私はここを出られない。
最後に勢いでわ~っと捨てることになるのは避けたかった。
たくさん持っていたお菓子作りの型も、もうこんなに作らないかな、と思って処分した。
この中には亡くなった祖母のものもあったが、「おばあちゃま、ごめんね」と言いながら処分することにした。
祖母はきっとわかってくれていると思う。
使っていたフライパン、お鍋類も処分した。
中学生の頃、歌謡曲が流行っていたので、FMラジオから録音していた。
日曜日の朝9時に始まったその番組は、その週の歌謡曲のベスト10を10位から順番に放送していた。
この番組は、題名と歌手名を歌が始まる前に言ってくれるので、そこから録音スイッチを入れることができてお気に入りだった。
カセットテープに録音して、何回も何回も聞いた。
45分とか60分のテープに10本以上持っていて、今のようにYou tube なんてなかった時代なので、家でも車の中でもかけて、よく聞いて歌っていた。
昔のカセットテープは本当によくできていて、他にもLPとかを録音したテープがたくさんあったけれど、ダメになったのは2本ぐらいだったと思う。
でもこれも処分した。
カセットテープはもう日本では使えない部類に入る。
聞こうと思えばYou tubeで聴ける。
・・・じゃなくて、捨てたくない。
捨てたくないんだけど・・・捨てた・・・。
捨てたと言いたくない。
処分した。
ごめんね、ありがとう。
この言葉を私は何百回繰り返しただろう。
全ての処分した物達につぶやいた。
アルバムも息子のものは持って帰ってきたが、他のものは処分した。
これもその決断を下すまでには時間がかかった。
楽しかった思い出がアルバムにはたくさんあるのだ。
私の歴史でもあるのだ。
家族の歴史なのだ。
でも、処分した。
息子のアルバムがあれば、それは垣間見ることができる。
そして何より、良い思い出は私の中に在る。
楽しかった時間は嘘ではない。
最後は残念なことになったけれど、あの楽しかった時間は本当なんだ。
結局引越し荷物は、半分が息子の漫画というくらい、私のものは処分できた。
東京2020ボランティア。選手専用プラザ。
選手村内にちょっとした買い物ができる場所がある。
全国から送ってもらったという材木を組み合わせて作った、選手の居住棟から比べるとちょっと異空間のような場所がある。
東京2020のお土産物を売っているお店や、コンビニ、美容院、クリニック、郵便局、写真屋、携帯ショップなどがあった。
ここはボランティアは入ってはいけないことになっているのだが、時々選手や団長に頼まれて一緒にお店に入ることがある。
店内にはこのエリア担当のボランティアがいて、関係者が入っていないかチェックをしている。
ちょっとお土産を見ているとすぐに近寄ってきて、どうしてここにいるのか質問される。
「団長と一緒です」とか言うと立ち去っていく。
コンビニにはいろいろあったようだが、選手団からは不評だった。
ボディーシャンプーがなくなったので買いたいが、コンビニには小さなものしかない。
外には出ていけないので、結局多くのボランティア達が、村外に行き買って持って入っていた。
これは、日用品に限らず、陸上選手のシューズが破れてしまったので同じものが欲しいとか、本当に様々な場面で「コロナのために外に出られない」ことが大きく影響した。
開村時、ネットを使っての購入は許可されていなかったが、あっという間に許可された。
オリンピック選手村あてにネットで商品も買い、選手村に届いた荷物を分けてその国の居住棟まで持ってきてくれる。
商品をネット購入したら、すぐにLogisticsという部署に届け出なければならない。
いつ頃、どんなものが届くのか申請しておかないといけないのだ。
ネット購入する時は、オリンピック選手村の住所と国名を入れないと届かない。
どのくらいの荷物が届いていたかはわからないが、たぶん相当数あったと思う。
そのうち、あっという間にUber Eats も広がり、その受け渡しが選手村の正面にある建物になり、外に出られない選手に替わってボランティアが行くことになる。
特に多かったのが、「誕生日をお祝いしたいのでケーキを注文したい」だった。
私もパラリンピックの時に、誕生日ケーキを取りに行ったことがある。
選手が注文して本当にあっという間に指定の建物に届いた。
しかし、「取りに行く」と簡単に言うが、選手村は広いのだ。
そして炎天下だ。
パラリンピックの時に担当していた国の居住棟は、一番奥だったので、そこから歩いて一番端の選手村出入口まで行き、それからその指定の建物まで行き、品物を受け取り、またその道を帰っていくのである。
オリンピックの時は、これが短縮できる「プラザ抜け」ができたのだが、パラリンピックから、ボランティアはこのエリアに立ち入ることもできなくなってしまったのだ。
オリンピックの時に、自分たちの買い物をしてしまったり、帯同していないのに入った人たちがいたようで、パラリンピックは通り抜けさえできなくなってしまったのだ。
村内を走るオートバスがあるのだが、これも選手たちと一緒でないと乗ることはできない。
往復30~40分かけて、そのケーキを届ける。
選手村の本当に本当にあり得ない作りだった。
殆どのボランティアが毎日2万歩位歩いていたと思う。
私は最高で26000歩だった。
平均15000歩。
プラザ内の美容院は、選手は無料でカットしてもらえる。
ネイルもやってたし、なんかすごいハイテンションで客寄せをしていた。
写真屋さんでは、有料で選手たちの写真撮影をしていた。
まあ、コロナで外出禁止になるなんてことは想定していなかったからしょうがないけれど、もう少し日用品が並ぶお店があったらよかったのかもしれない。
選手村の近くにはコンビニもある。
選手は外に買いに出ていなかったのか。
出ていた。
オリンピック後半は特に出ていた。
多分、もう自分の試合が終わってしまった人は、「出場停止」になることはもうないので安心していたのかも。
居住棟にたくさんのビールの缶が捨てられていたし。
選手村は入るのには厳重なチェックがあるけれど、出るのには全くチェックをしない。
帽子をかぶってマスクをしていれば、誰が出ていくのかわからない。
門にはガードマンがいるけれど、本人チェックも鞄の中身もチェックしないのだからおかしな話しだ。
外に出た選手は競技会場から帰ってきた時と同じように選手村に入村できる。
まさしく「ざる」だった。
最近あったちょっといいこと
今週のお題「最近あったちょっといいこと」
ニコタマライズに行ったんだ。
小さなリュックしょってて、なんだか忘れたけど買い物した。
その後、エスカレーターで降りていた時、突然後ろから「トントン」と肩をたたかれた。
振り向くと小さな女の子を抱っこした男の人が、
「あの、後ろリュック、全開ですよ。なんか、ぱかーんって開いちゃってるんで」
見ると、リュックのファスナーが本当にぱっかーんと開いていた。
そのまま手を突っ込めば、お財布も何もかも取れる状態。
「うわ、ありがとうございます!」
と言って急いで閉めた。
こういう時、割と何も言わない人が多いような気がする。
忘れちゃったんだろうな~と思いながら特に声はかけない。
でもその人は教えてくれた。
ありがとう~~~!
その2~3日後、自由が丘の東急を歩いていたら、ご高齢の女の人がリュックをしょっていて、やっぱりぱかーんと開いていた。
私は迷うことなく、その方に、
「リュックの口、開いてますよ。危ないですよ」
と教えてあげた。
いただいた親切を誰かに返すことができた。
なんとなく声をかけない。
なんとなくスルーしてしまうことの多い昨今だが、やはり声をかけていこうと思わされた「最近あったちょっといいこと」だった。
東京2020ボランティア。選手村まで。
初めてオリンピック研修が選手村で行われた日、勝どきの駅について驚いた。
すんごい人。
私は勝手に、勝どきの駅は何もなくて、駅から選手村まで何もない道を歩いていくのだと思っていた。
選手村にできたマンションは、何もまだできていない場所にできたものでこれから駅周辺やマンション周辺ができあがっていくのだと、勝手に想像していたのだ。
ところが、勝どきの駅ではかなりの人が降りた。
そして、駅からの階段を上がると、
「うひゃー」と驚くほど開けていた。
なんだ、普通の町じゃん。
そして、大勢の人が歩いていく。
駅からはきっと選手村までの道案内が各所に貼ってあるのではないかと思った。
もしくはボランティアが立っていて案内しているとか・・・
なぜなら、都庁で行われたボランティアのコロナワクチン接種の時には、都庁前の駅を降りたら、2メートル間隔ぐらいで案内表示が出ていたからだ。
「ま~なんて親切。迷いようがないわね」
と思っていた。
しかし、勝どきの駅からは全くなかった。
ボランティアも立っていなかった。
案内表示があるだろうと思っていた私は、グーグルマップで選手村を検索していなかった。
急いで検索してそれに従って歩いた。
歩道は広く、自転車の後ろに子供を乗せた母親とか、駅へ向かう人などがたくさん歩いていた。
この日私は結局道に迷った末に、何とか選手村に到着したのだが、勝どきの駅からはかなり遠い。
15分弱位?
けれど、朝はとにかく真正面から太陽が照り付けてまぶしくて暑い。
選手村に着く前に汗をかいてしまうので、なるべくゆっくり歩いて行ったほどだ。
途中公園があるのだが、3日目ほどで、「オリンピック関係者の通り抜け禁止」となっていた。
つまり、勝どきの住民からは選手村は歓迎されていなかったのだ。
選手村のボランティアは勝どきから選手村までは右側通行で、なおかつ携帯などを見ながら歩いて歩行者の迷惑にならないようにしてくださいと通達があった。
テレテレ歩いていて住民に迷惑かけないでね、ということらしい。
公園も公園のトイレで着替える人がいたのか、通り抜け禁止になった。
オリンピックが始まったころは反対ムードが強く、ボランティアのユニホームを着て電車に乗るのが憚られたのだ。
多くの人が上に違うシャツを着たり、勝どきに着いてから着替えたりしていたようだ。
1週間ぐらい経ってから、途中のコンビニも、外に置いているゴミ箱が閉鎖された。
「オリンピック期間中はゴミ箱を使用できません」
ボランティアがたくさんゴミを捨てていたのだろうか・・・?
なんか電車内でもユニホームが目立って、消えてしまいたいような気持だったのに、勝どきの駅ではさらに拍車がかかって、「来ないでよ」ムードがもりもりだ。
身体を小さくして家から選手村まで行かなければならないような雰囲気だった。
そうそう、東京2020から説明のあった、通りの右側というのは、歩道の右側(右半分)というのではなかったようだ。
確かに歩道の上には、右側通行でお願いしますという標識があったが、これはボランティア向けに設置されたものではないことはすぐにわかった。
通りを挟んで左側には晴海トリトンがあり、そこに勤務する人たち用の「動く歩道」があったのだ。
なんと屋根付き。
「うわ~いいじゃん、あれ~。あっち側歩こうかな」と思った瞬間に気づいた。
東京2020が説明した言葉「通りの右側を歩いてください」。
そうか、歩道の右半分を歩いてね、ではなくて、通りの右側つまり動く歩道は使って来ないでね、という意味だったのだ。
まあ、その歩道を使うためには、横断歩道を渡って左側に行き、その後また横断歩道を渡って通りの右側に戻らなければならないのでちょっと面倒くさい。
あの周辺大通りだから、信号長くてそれ2つ渡ってくるのはな~ちょっと面倒くさいよな~。
まあ、そんなこんなで、勝どきから汗をかきかき、人に迷惑にならないように選手村まで歩いたのだ。
選手村の入り口が見えてくるあたりになると雰囲気は変わる。
警察官やセキュリティーがたくさんいるので、その人たちが挨拶してくれる。
東京2020には日本全国から警察官が集められたようで、選手村周辺には「大阪県警」と胸につけた警察官がたくさんいた。
他の競技会場では「鳥取県警」もいたなあ。
警察官から「ご苦労様です」と声をかけられるのは何となく嬉しい。
ここまで来てやっと、前を向いて歩ける。
そんな感じだった。
苦手なこと。空腹+待機。
お腹がすいているだけなら比較的精神的均衡を保てる。
しかしこれに、「待機」つまり、誰かを待つとか、何かを待つ、という状態が加わると、この均衡が保たれなくなってくる。
食事の時間に、用意ができているのに帰ってこないから待つ、という状態や、ごはん食べに行って、まだ来ていない人がいるので待とう、とかいう状況が嫌だ。
昨日も健康診断で、朝食抜きで10時に病院だったんだけど、もう「なぜ朝食抜きなのに10時?!」とそもそもここから理解できない。
健康診断はあっという間に済んだんだけど、そのあと先生の問診があるのでそれを待たなければならなかった。
10時10分ごろ終わった健康診断が先生の問診が始まったのは10時50分だった。
朝食抜いている患者さんは先にやってよ、とかこれだけ時間があるなら言ってくれれば近くのコンビニでなんか食べられたのに、とか頭の中でぐるぐるしている。
空腹+待機状態というのは、私の精神衛生上本当に良くない。
制御不可能状態になる。
やっと呼ばれて診察室に入って、先生が「どうだった?」とか話してくれたんだけど、「先生、すみません。おなかがすいて倒れそうなので」と言ったら、
「あ~ごめんね、そうだよね。」
と言って急いで胸に聴診器をあててくれた。
せっかく話しかけてくださった先生に失礼だったなあと思ったので、ちょっといろいろ体の事とか、この間受けたインフルエンザの副反応がひどかった話しとかしたんだけど、頭の片隅では、この後コンビニで何買って食べようか考えている。
もしかしたら、空腹+待機+無言が最悪パターンなのかもしれないと、今書きながら思っている。
先生と話しているとちょっと紛れていたので・・・。
このあと、もちろんコンビニでパンとあったかいコーヒーを買って、そこで食べた。
昼食に近い時間だったけど、家まで待てなかった。
だって、お米買って帰りたかったし。
このまま何も食べずにお米買って帰ったら、お米抱えたまま行き倒れになりそうだったから。
スペインに住んでいた時も、皆で集まって一品持ち寄りのお昼をしたことがあったけれど、「○○さんがまだだからもうちょっと待とうか」となると、とたんに制御不能になる。
「え~食べて待ってようよ」と言いたい。
しょうがないので、ポテチとかつまんでも大丈夫そうなものをつまんで耐える。
皆、本当に寛容だな~と思う。